インフレの進行が止まらない。様々な商品やサービスが、まるで堰を切ったかのように値上がりしています。この現実に、多くの消費者が戸惑い、そして自らの「価値観」を根本から揺さぶられています。ここ数年海外に行ったことがある人であれば、より一層その現実を目の当たりにしているのではないでしょうか。これまで無意識に購入していた「いつもの商品」に対し、今、消費者は鋭い視線を向けています。
「この商品に、本当にこの価格を支払う価値があるのか?」
一つひとつの購買行動が、自らの価値観を問い直す「選択」へと変わろうとしているのです。
企業側は、「値上げをしなければ事業が成り立たない」という現実と、「少しでも多くの人に利用してもらいたい」という想いの間で葛藤しています。
しかし、どちらの道を選んだとしても、企業はもはや「コストが上がったので値上げします」という一方的な論理だけでは、消費者の支持を得られなくなっています。
インフレ時代における「適正価格」とは、一体何なのか。 この記事では、「コスト」起点ではなく、これからの時代に必須となる、消費者心理を起点とした新しい価格戦略について、その答えを考察します。
そもそも「適正価格」とは、何を基準に決められてきたのでしょうか。
旧来の経営学では、「コストプラス法(原価加算法)」や「競合追随法」が一般的でした。つまり、「原価に利益を乗せた価格」か、「競合他社に合わせた価格」です。これらは供給側の論理に基づいています。
しかし、消費者が購買を決定する際、その商品の「原価」を第一に考えているわけではありません。
消費者の頭の中にあるのは、たった一つの天秤です。 片方には「支払う対価(価格)」。もう片方には「そこから得られる価値(ベネフィット)」。 そして、「価値」が「価格」を上回ったと知覚した瞬間にのみ、購買行動は発生します。
この消費者が主観的に感じる価値を「知覚価値(Perceived Value)」と呼びます。インフレは、この「企業の提示価格」と「消費者の知覚価値」のズレを、決定的に「可視化」させたのです。
生活防衛意識が高まる中で、なぜ消費者はあえて「高い方」を選ぶのでしょうか。 それは、彼らが「機能」や「スペック」だけではなく、自らの「感情」や「価値観」を満たすものに、喜んで対価を払うからです。
筆者は、このインフレ下で見えてきた「消費者が納得して支払う価値の正体」を起点とした新しい価格戦略を、「“心”(しん)価格戦略」と名付け、定義します。
「“心”価格戦略」とは 従来の「コスト」や「競合」ではなく、消費者の「心(こころ)」を価格の起点に置くアプローチである。消費者の心理を動かす4つの「心のツボ」を見極め、それを価格に反映させる戦略を指さします。
この「“心”価格戦略」は、4つの「心のツボ」を刺激する価格設定によって構成されています。
消費者は、機能的価値だけでは測れない「エモい」体験にお金を払います。 「エモい」とは、「Emotion(感情)」が由来の通り、理屈ではなく「心が揺さぶられる」「グッとくる」「この世界観が好き」という感覚です。
例えば、高級パンケーキ。消費者は「小麦粉と卵(原価)」に3,000円を払っているのではありません。「洗練された空間で、フワフワの食感と美しい盛り付け(五感)を味わい、非日常的な高揚感を得る」という情緒的な体験に対価を払っています。
「安いから買う」の対極にあるのが、「自分を大切にする(ご自愛)」ための消費です。 「これを買う(利用する)ことで、私は自分を大切にできている」「私のQOL(生活の質)が上がる」という、自己肯定感を高めるための対価としての価格です。
この「心のツボ」を巧みに捉えているのが、高価格帯のミールキット(食材)のサブスクリプションです。 スーパーで個別に買う(機能)よりも割高かもしれません。しかし消費者は、「健康に配慮された食材が届く」「献立を考える手間が省ける」という「自分と家族をケアする」体験に価値を見出します。
これは「ご自愛」とは異なり、ベクトルが大切な他者(子供、ペット、家族など)に向かう心理です。 消費者は、自らのためなら節約しても、愛する誰かの「安全」「健康」「未来」のためなら、高額な対価を厭いません。
例えば、高価な知育玩具や教材。これは「おもちゃ(機能)」ではなく、「子供の可能性を広げる未来への投資」として認識されます。価格の高さが、むしろ「それだけの価値(安全性・教育効果)がある」という安心材料にすら転換される、非常に強力な「心のツボ」です。
商品やブランドを、単なる「モノ」としてではなく、応援すべき「推し」として捉えたときに成立する価格です。 「このブランドの哲学が好きだ」「このコミュニティの一員でありたい」という、応援や所属意識の証として機能します。
例えば、キャラクターグッズ。消費者は「プラスチック(原価)」に数千円を払うのではありません。「このキャラクターが好き」という愛情表現であり、「同じファン(仲間)である」という所属感を得るための「チケット代」として価格を支払っています。
この4つの「心のツボ」で、消費の心理を再整理してみましょう。
インフレという厳しい局面は、「コストプラス法」の終焉を決定づけるかもしれません。
この記事の問いである「インフレ時代の適正価格」とは何か。 その答えは、「“心”価格戦略」によって導き出された価格に他なりません。「消費者が納得して支払う価値の正体」とは、機能だけではなく「エモい」「ご自愛」「(誰かを)想う親心」「推せる」という心理的な報酬です。
今求められているのは、旧来の価格決定(Price Setting)ではなく、自社のブランドが提供できる「価値」を、この「“心”価格戦略」の4つの「心のツボ」に当てはめて再定義することです。
価格(数字)を提示するだけでは、消費者は動きません。その価格の背景にある「価値(=物語)」を、雄弁に語る必要があります。しかし、その「物語」を語るべき相手は、消費者だけではありません。もう一つのフィールドは、市場(社外)ではなく、社内にあります。ブランディングにおける我々の一つ役割は、この戦略的価値を導き出し、社内外に「翻訳」することです。
「我々のブランドが押すべき“心のツボ”は『ご自愛』だ。だから、開発部門はこの体験価値を磨き込んでほしい。営業部門は、この価格を『コスト』ではなく『自己肯定感への投資』として語ってほしい」それこそが、インフレの時代を乗り越え、消費者に「選ばれ続ける」ブランドを築くブランド戦略になると考えています。
そして今後は、この「“心”価格戦略」をさらに発展させ、実際にブランドが活用できるプロセス設計や方程式化に取り組んでいきたいと思います。
感情や価値観をどのように価格へ変換できるのか——
その実践的な仕組みを明らかにすることが、筆者の次のテーマです。
植村 徹
PRODUCER / PLANNER
クリエイティブエージェンシーでCI/VI、ブランディング、TVCM、Web施策などを経験。デザインシンキングや編集思考を用いたワークショップやファシリテーションを得意とし、百貨店の売り場開発、ライフスタイル商材のブランドコンセプト開発などを行っている。